昭和48年10月11日 夜の御理解
(途中から)
いわれて来た事ですし、私共もそれを経験させて、体験させて頂くのですけれども、矢張りあの信心のお話というものは、その時その時に、新たな心で頂かないと、分り切っておる事で失敗を致しますね。もういうなら昔の先生方だけで、信者さん方でもいわれて来たこと。
例えば昨日、お月次祭の中から、あのお話申しました。あの上野恵子さんがお夢頂いておられる事から、お話したでしょう。本気で信心しようと思うとね。それをさせまいと言う働きがあるです。
その栄四郎が後ろから、こう後ろ髪を引く様な事をするというお夢だったそうですけれども。そんな何が昨日、そんな事を頂いたが、今日も私はねある方のお取次ぎをさせて頂いて、是はその方が、はぁ成功されるなぁと思ったんですけれども、ある願いの事の為に、その好きな物を絶ってお願いをするというお届けでした。
それからははぁ私は、人間心では此の人は、本当に出来るだろうかと思いながらね。お届けさせて頂こうと思って、その事を神様にお届けさせて貰ったら、丁度こうまぁ小鯛、鯛のごたっとがこう泳ぎよるとこですよ。
その前にね餌を、こうやって持って行って、それを側まで行ってから、かぽっと来るかと思うたら、あの餌をよけて、すうっと向こうさん行った。そしたら餌の方から、前の方へこうやってですね、もういかにもこう、あの食べさせにゃおかんちいう様なふうで来るけど、それをすっすっとこう、食べずに行くとこを頂いた。
あら食べたら釣り上げられるとですよね。ですから、あの私共が、例えば色んなあのう信心が、だんだん進んで参りますと、神様も試しなさらなければならない、それは一つの約束がある様ですよ。
同時にあの、そうした願い事をさせてもらって、いっちょ本気で、こんな信心させてもらおうと、心で決めるとですね。もう言葉でいうならば、成程あんたがいうとが、ほんなこつという様な口実が付いてですね。あのそこんところを、例えば、ご無礼せんならん様な事がね。
例えばほんなら、まぁ日参しようと思いよったら、ちょっと具合が悪かったとか、なんかですね、そこんところの、そのさっきよく聞こえなかったけれども、上野先生が話しておる中に、人情と心情の使い分けは大変、難しいとこういう。
はぁこら神様のお試しだといった様な事は分かるんですよ、大体は。自分の心を、神様に向けておきゃね。だからそこんところを、一つ、踏ん切りをつけて踏ん張って、おかげを頂いて行くということがですたい。
例えば前に餌を、こうやって置かれておっても、それに食い付かない。そして避けて行くというだけの勇気というか、元気な心というものが要る。もうこんな事はね、もうそれこそあの昔から、いいつたえられ、まぁ皆んなも、神様は皮肉だとか、神様はお試しをしなさるとか、そういうことはもう、随分聞いても来ておるし、また自分でも体験もして来ておる事ですけれども、
さぁあそれを自分のさらな事に、日々それを生かして行かんとですね、あの些細な事から失敗をし、些細な事から信心の、いわば落第をする様な事があります。本当にもうこうと決めたら、やっぱやり抜くという、その心が信心には大事ですね。